Glamorous 80'sの話
1981年
Deutsch Amerikanische Freundschaft
Alles Ist Gut
※Mein herz macht bum
2005年
日限さんが亡くなっての振り返り。
1978年 高校2年の頃、
それまで輸入盤を買うのといったら、
梅田のLPコーナーや西天満のHOGGだった。
東通商店街を突き抜けた先を左に曲がったところに
DOWNTOWNというレコード屋もあった。
そのDOWNTOWNが心斎橋の北側に移転したのを契機に、
ぼくもミナミヘ出てきた。
宗右衛門町は、子供の頃に歌謡曲で聴いていたイメージどおり、
まだネオンがまぶしくて栄華を誇っていた頃だった。
ダンスホールを掛け持ちしていたバンドマンが、
ウッドベースを持って走ってたり、
派手なスーツに襟の高いシャツ着て、
胸にはゴールドのチェーンを巻いた
James Brownみたいなおっちゃんが闊歩していた。
ぼくはロックマガジンのレコード・コンサートに行った。
アメリカ村のDOMUSというカフェで、編集長の阿木さんが、
海外の音楽をかけて評論するというスタイルだった。
海外の前衛音楽はほんと刺激的で、たまらんかった。
そこでボランティアのスタッフ募集が行われてて、ぼくは参加。
ハンドメイドのように意匠を凝っていたロックマガジンは、
製本屋の床を舞台に、ソノシートをみんなで貼り付けたりもした。
印刷も製版も写植も別々の業者さんでやって安く仕上げようという、
デスクトップ時代では考えられないような涙ぐましいアナログぶりだった。
ぼくらは製版屋さんに出張して、毛抜きまでしていた。
袋文字は写植の文字をなぞって切り張りしていた。
ぼくはイギリスの音楽新聞の翻訳をして、雑誌に載せたりもした。
POP GROUP、THROBBING GRISTLE、NO NEWYORK。
ちょうどぼくと同い年だったMark Stewartの発言や、
TGのGenesis P Orridgeの挑発するような言葉の数々は、
翻訳しながら「同時代性」をものすごく感じてた。
高校2年頃から輸入盤にのめりこんだおかげか、
大学は1年目、すべってしまった。
それでもロックマガジンを手伝いに行ったり、
高校の近所の喫茶店でバイトに明け暮れ、
12月くらいから受験勉強を本格的にして、2年目は合格。
1981年
大学入学の翌月から、またロックマガジンのお手伝いにはまることに。
そして6月には阿木さんとヨーロッパ取材旅行へ行くことになる。
ドイツにはじまり、ベルギー、フランス、イギリスと4ヶ国を約2ヶ月間、
毎日当時はまだ一般化していなかったポータブル・ビデオと
変圧器を担いでインタビューやコンサートへと向かっていた。
当時はJoy DivisionのIan Curtisが自殺したり、
ニューウェーブやオルターナティブの連中もある種の成功を勝ち取り、
以前ほどの刺激も薄れてきていた頃だった。
そこでぼくらがとびついたのが、Neue Deutsche Welleと呼ばれる、
ドイツのニューウェーブだった。
DAF、Die Krupps、SYPH、Der Planなどなど。
DAFはイギリスのミュートからリリースするなど、
インディーのなかでもメジャーになりつつあったが、
他はイギリスのニューウェーブのカテゴリーとは、
まったく異質な新しさを輝かせていた。
ロックマガジンの表紙を描いてくれたりしていたアヒム・デュホウの計らいで、
憧れの元Neu、La Dusseldorfにも会えた。
ベルギーではLes Disques Du Crépuscule、ロンドンではOn-UのSlits、
パリではSORDIDE SENTIMENTALなどと、
刺激的な毎日をヨーロッパで味わっていた。
ぼくは一時期、阿木さんに怒鳴られ、ロンドンで別々にステイしていた頃、
PILの前座のダンサーの女の子んとこに転がり込んでいた。
それはBRIXTONという町で、あるストリートなんか、
麻薬の売人が通りに並んで売ってるようなジャンキーなまちだった。
また、大規模な暴動が起こっていたことは知らなかった。
Slapp HappyのDagmarもBRIXTONに住んでいた。
でもアラブ人やインド人、ジャマイカンなどエスニックが多く、
彼らのネイティブなおいしいものが食堂では毎日楽しめた。
帰国後は、取材ビデオを上映するイベントを
Palmsの地下のクラブでやったりしていた。
1981年はまだ12inch シングルが珍しい頃だった。
Rough Tradeのようなインディーのディストリビューターが
世界にニューウェーブを送り届ける役目を担い、
インディーをビジネス化していく頃だった。
Rough Tradeはメーカー機能よりも、ディストリビュートに力を発揮し、
ヨーロッパのインディーの集積地であった。
元WireのLewis & Gilbertにも会ったが、
次のアルバムが製作できるくらいしか売れてないとのこと。
でも作り続けられるマーケットのありがたさをロンドンでは感じた。
その頃のロンドンは経済的にも疲弊してきて、
Sex Pistolsの「No Future!」という言葉は、
観光用のパンクにいちゃんやパンクねえちゃんの
定番のせりふになっていた。
阿木さんはKBS京都で以前からPops in Pictureという番組で
コーナーを担当し、ニューウェーブのプロモーション・フィルムや
ビデオを紹介していた。
KraftwerkやDevoみたいな新種の音楽を紹介するのは、
阿木さんの独壇場だった。
ぼくも京都御所近くのKBSのスタジオまで
Uマチックのビデオを運んだものだ。
そういえば、Peter Gabriel在籍時のGenesisのライブ映像も
この番組で見してもらった。
みんながよく見ていたEaglesのHotel Californiaのフィルムも、
プロモ・ビデオの創世記にあたるだろう。
Palmsの1階のカフェでは、そんなビデオや、
阿木さんのコーナーを録画しておいて、流してたりした。
その頃、Palmsの1階では、あのデューク更家も働いていた。
高い天井でトロピカル・デコ調のPalmsのたたずまいは斬新だった。
後の原宿・ピンクドラゴンなんかパクったといわれるくらい似ていた。
キングコングの回陽さんとくりすと3人で東京に行ったとき、
ピンク・ドラゴンに行ったけど、そのパクリ具合に、3人で失笑してしまった。
これは1984年の6月18日。
Laurie Andersonを日本青年館で観て、
その後、ピテカントロプスに行って、
坂本龍一、高橋悠治、Nam June Paikの
パフォーマンスを観た時だと思う。
この時期、西武美術館でヨーゼフ・ボイス展があったり、
ギャラリーワタリはボイス&パイク展、
草月会館で二人のパフォーマンスもあった。
こっちは回陽さん抜きで、くりすと二人で行ったような気がする。
※JDN / JDNリポート / さよなら ナム・ジュン・パイク展
ママにPalmsに呼ばれて行ったのは、
アメリカ村ユニオンでマーキーがミニFMをしたいということだった。
NHKの技術の方に相談したら、ビル街のなかでは電波が飛ばないらしい。
でもユニオンのメンバーは、そんなアナログな村づくりを一生懸命していた。
そこにキングコングの回陽さんがいた。
心斎橋のブラザービル(現在のPARCO向かいのカラオケ屋のあるビル)で
レコードや古着などの店舗を集めて、イベント的なマーケットをしたりして、
ロックマガジンも参加したことがあった。
そのイベントは回陽さんが仕切ってて、SPACEの中野さんも参加してた。
Palmsは、1階がカフェ、2階がサルーン・バー、そして地下がクラブだった。
その頃の「クラブ」は普通、おねえちゃんをはべらせて飲むとこで、
現在のクラブといいう概念を日本で開花させたのはPalmsだったと思う。
地下のクラブしかない時代は知らないが、
いろいろな音楽やファッションのショーケースだった。
1970年代のミナミのディスコは、サーファーDJが流行を極め、
そのアンチテーゼとして、ニューウェーブなPalmsがあった。
ママはMick JaggerやDavid Bowie、Lou Reedなど
ロックのカリスマ・スター好きだったけど、
ニューウェーブへの理解は薄かった。
一番盛り上がっていた頃は下に降りてこず、うっとおしがっていた。
DJのタっちゃんやフロアの小林くん、
店員の北山(オカマのキタコ)などが当時の地下スタッフ。
アメリカ村はジーンズをトン単位で買ってきて、
いいものを選別して売っていた。
しかしサーファー・ブームの衰えとともに、
アメリカン・カルチャーの人気は引き潮となり、
夜逃げする店も出てきて活気を失ってきた。
そこへDCブランド。
コムデギャルソンやワイズやイッセー、ビギ・グループなど
新しいおしゃれ感がミナミを席巻しだした。
BALやPARCO、大丸・そごうの百貨店、
企業やメーカーがリードする時代になり、
おしゃれの主役はサーファーから
マヌカンやマヌ男(男の販売員のことね)らになり、
彼らが求めるおしゃれスポットとしてPalmsがあった。
音楽は、EaglesからDevo、Flying Lizardsへと移っていた。
その中のポップ・スターがCulture ClubのBoy George。
キタでは「あしたの箱」チームがMalcolm McLarenのりで
おしゃれを極めていた。
音楽も時代も激動期だ。
Palmsの後には数々のクラブが登場してきた。
堂山のジンバブエ、梅新のJ's、バンブーハウス、ジュビレーション、
スパンキー、ゲネシス、倉庫倶楽部、東心斎橋のパトーナ、サウスリー、
梅ちゃんのポイント・アフター、そしてマハラジャが登場する。
Palmsの晩年、日限さんは警察との戦いだった。
フロアで踊ったらあかん!とフロアにハイスツールのテーブルを置き、
カフェバー化したり、
堀江公園の交番に呼び出されて、延々と説教され、言い合いになったり。
そしてPalmsの終焉。そのあとのLIFEオープン。
大きなクラブ・ムーブメントは日限さんの後にしか咲かなかった。
現在ウルフルズの事務所の社長である、森本さんが仕掛けた
福島のダイナマイトやなにわ筋のパラノイアが1990年代初頭の
メイン・ストリームだった。
正確には1989年だが、FM802の開局とともに、
またベルリンの壁崩壊や昭和天皇崩御という大きな歴史のうねりの中で
90年代は1989年からはじまった。
1991年に日限さんは、QOOを難波にオープン。
ぼくは日限さんから頼まれて、QOOの下のライブハウス
「W'OHOL」のプロデュースをすることになる。
※20世紀日本クラブシーン紳士録
by mamorus7
| 2005-04-28 19:53
| 芸能
頭、いかれてる
by mamorus7