日限萬里子さんが亡くなった…

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1976年
The Eagles
HOTEL CALIFORNIA

日限ママとは、ぼくが高校生の頃からのつきあいだ。
当時、ぼくは『ロックマガジン』という雑誌の丁稚をしてて、
Palmsにお茶しにいったり、雑誌のイベントをしたりした。
1978年。





Palmsの1階カフェでは当時まだ珍しかったプロジェクター型のビデオで
ホテル・カリフォルニアがよく流れていた。

ぼくが大学をやめて編集者になって、その後雑誌をやめてからも、
地下のクラブで踊り倒していた。
テクノやニューウェーブなどの先陣を切っていたロックマガジンの
編集者ならではの、レコード・コレクションを利用して、
クラブのDJに「今日入った新譜やでぇ~」とフロアに
ロンドンやマンチェスター、ニューヨークなど
大阪一早く新譜を響かせていた。
1983年にサンボウルの地下で『アート・アート83』という
展覧会イベントをしたとき、
日限ママはアメリカ村ユニオンの会長として協力してくれたり、
QOOと一緒にプロジェクトがし進んだW’OHOLというライブハウスのときは、
ママのSOSがあってぼくがプロデュースをさせてもらったりもした。
入退院を繰り返していることは風の噂に聞く程度と、
ここ何年間は会えてなかった。

亡くなる当時の状況は、江さんやいろんな方のブログに教えてもらって、
よけいママのママらしさを近く感じた。

ぼくとキングコングの回陽さんでやってたフリースペースに端を発して、
法人化したフェイレイという事務所は、
今年の4月にちょうど20周年になる。
20年間いろいろあったけど、もう一度初心に戻ってと思ってた矢先の
ママの死は、ほんとに大きな区切りになってしまった。

お通夜の後、一人で飲みにいったら、
アメリカ村でテナントリースを手がける小川さんとばったり会った。
「一言で、ママは結局どんな存在やったか言ってよ」と言われて、
考えてみた。
ママは、いつも人と人が会う場所にいて世話してくれる、
素敵なホステスやったとぼくは思ってます。
店を作ったり、プロデュースしたりすることはその一端やったと。
ぼくがアメリカ村やミナミに吸い寄せられたのも、
そんなコミュニティがあったから。

しばらくは、自分の80年代~90年代を振り返って(おじんくさいなぁ)、
次の時代への準備をしようと思ってます。
会社名義の借金も完済したし、厄年もあけて、
またいろいろ新しく動いていかなあかんと思う2005年です。
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by mamorus7 | 2005-03-14 18:31 | 宗教・生死


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