仏教の遠足<柳生街道編>





2007年7月22日(日)
忍辱山「円成寺」~滝坂道「地獄谷の磨崖仏」
workroom

仏教の勉強会で遠足。
でも前日呑み過ぎて当日行けなかった。
当日用に用意してたプリント。



忍辱山円成寺


円成寺(えんじょうじ)は、奈良市忍辱山町(にんにくせんちょう)にある真言宗御室派の寺院。
山号は忍辱山、本尊は阿弥陀如来。
奈良市街東方の柳生街道沿いに位置する古寺で、
運慶の作品としてはもっとも初期に属する大日如来像を所蔵することで名高い。

●沿革
寺に伝わる「和州忍辱山円成寺縁起」によれば、
天平勝宝8歳(756年)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、
唐からの渡来僧で鑑真の弟子にあたる虚瀧(ころう)により開創され、
万寿3年(1026年)に命禅が再興して十一面観音を祀ったという。
しかし、鑑真とともに来日した僧の中に虚瀧なる人物は実在せず、
奈良時代にさかのぼる遺品、出土品等も見当たらない。
以上のことから、この草創縁起は後世の仮託と思われ、
「中興の祖」とされている命禅が円成寺の実質的な開基であると推定されている。
平安時代末期の保元元年(1156年)、
京都仁和寺の寛遍が東密忍辱山流を開いて寺運は興隆した。
この頃に本尊が当初の十一面観音から阿弥陀如来に代わったと思われる。
応仁の乱(1466年-1476年)の兵火により
堂塔伽藍の大半が焼失したが、栄弘が入り再興された。
江戸時代は寺中に子院23か寺を有するほどであったが、
明治維新の際の混乱により現在の姿となった。

●境内
正門にあたる楼門の前には平安時代の面影を残す、
池を中心とした浄土式庭園(名勝)が広がる。
楼門を入ると本堂を中心に鎮守社の春日堂、白山堂、宇賀神本殿、多宝塔などが建つ。


●庭園 (国名勝、平安時代)
寛遍僧正が築いたと伝えられる寝殿造系庭園、浄土式庭園。
浄土式庭園というのは京都ではあちこちで見かけるが、
奈良ではここと当尾の浄瑠璃寺が有名。


●楼門 (重要文化財、室町時代)
応仁二年(1468)の再建。


●本堂 (重要文化財、室町時代)
全体の意匠は寝殿造風である。
入母屋造で妻入(屋根の形が三角形に見える方向を正面とする)とするのは仏堂建築には珍しい。
寺の説明には文正元年(1466年)建立とあるが、
文化庁の資料では棟木銘から文明4年(1472年)建立としている。
内部には本尊阿弥陀如来坐像と四天王立像を安置する。
内陣の柱には阿弥陀如来に随って来迎する二十五菩薩の像が描かれている。


●春日堂、白山堂 (国宝、、鎌倉時代、安貞2年、1228年)
安貞二年(1228)奈良春日大社造営の際、大社神主藤原時貞が旧社殿を寄進。
春日造社殿の現存最古の例として国宝に指定されている。
本堂の脇に建つ2棟の社殿で、2棟とも同規模・同形式である。
表 入母屋造、裏 切妻造、桧皮葺。
明治初期の神仏分離令による破壊をまぬがれるため、仏堂風に「堂」と称した。
建造物としては日本で一番小さい国宝で、両方とも一間社春日造りの檜皮葺である。


●宇賀神本殿 (重要文化財重要文化財)


●多宝塔
現存する多宝塔は平成2年(1990年)の再建で、
旧多宝塔は大正9年(1920年)、老朽化のため撤去された。
ちなみに、鎌倉市の長寿寺にある観音堂は、
旧円成寺多宝塔の初層部分の材を用いて建てられたものである。

 
●木造大日如来坐像 (国宝、平安時代)
多宝塔本尊で、運慶25歳頃の作品。
平安時代末期の安元二年(1176)十月十九日に完成し寺へ奉納した。
台座内部の銘により、安元2年(1176年)、仏師運慶の作であることがわかる。
運慶は東大寺・興福寺などの復興造仏に尽力し、鎌倉時代を代表する仏師として知られるが、
この作品は作者の20歳台後半頃の、現存するもっとも初期のもので、
時代的には平安時代末期に入る。
像高約99cmの寄木造、漆箔仕上げの像で、光背、台座も大部分当初のものが残る。
作風は平安時代風を残しつつ、均整が取れ、
引き締まった体躯表現、張りのある表情などに運慶の特色が現われている。
もと本堂内に安置されていたが、多宝塔に移されている。

●重要文化財
・石造五輪塔  ・木造阿弥陀如来坐像  ・木造四天王立像

 
●十三重石塔 (重要美術品、平安時代後期、凝灰岩、高さ 約450Cm)
円成寺楼門の前より西に約20mの所にある。


●本堂西側の三体の石仏(左から地蔵・阿弥陀・地蔵)
阿弥陀石仏(室町時代 天文十九年の銘、花崗岩、高さ 123cm)


●地蔵石仏(室町時代 永禄元年の銘、花崗岩、高さ 93cm)
●地蔵石仏(室町時代後期、花崗岩、高さ 88Cm)

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滝坂の道(柳生街道)


「滝坂の道」は、春日山と高円(たかまど)山の谷あい、
渓流に沿った2.5キロにわたる石畳の道。
江戸時代初期、当時の奈良奉行が石畳を敷き詰めたと言われるが、
家康の威光を背にした柳生藩の要請であったとも言われる。
街道は今も昔の風情を伝えている。
滝坂の道はその名前の通り美しいせせらぎの音がきこえる古道。
道沿いに流れる渓流には小さな滝が多くある。
この道は柳生の里と奈良の都をつなぐ生活のための道として古くから利用され、
かつては塩や食料品などの生活物資を車に乗せて多くの人がここを通ったようだ。
奈良から柳生但馬守宗矩や十兵衛ら剣豪達が柳生目指して歩いてきた道。
柳生は江戸時代、徳川家康、秀忠、家光に仕えた柳生藩の里であり、
柳生宗矩は将軍家の剣法師範をつとめた。
現在も、家老屋敷、柳生藩菩提寺の芳徳寺、柳生藩陣屋跡などが残っている。
小さな小川のせせらぎを耳にしながら渓流に沿って歩く道。
街道沿いの民家の軒先では、小豆やお茶の葉を売っている。
円成寺墓地の横を登ると木立に囲まれた平坦な山道が続く。
やがて茶畑が一望できるあたりに出る。
なおも緩やかな登りが続く山道をゆくと、
やがて前途が開け「峠の茶屋」に到着する。


峠の茶屋は、石切峠の近くにある茶店で、
各雑誌等に紹介されているので、ここを歩く人は誰もが知っている。
うどんやビール、草餅など簡単な食事がとることができる。
家の鴨居には、槍や陣笠が掛けられている。
旅人が茶代のカタに置いていったとされる
槍や火縄銃・古い箕の笠などを見ることができる。
昔ここを通りかかった武芸者が飲み代のかたにしたと言われている。
神道無念流を図解した武芸帳もあるそうだ。
今では、剣豪の里柳生への道として有名だが、
それ以前は春日山にまつわる信仰の道として存在したため、
道沿いに石仏や石窟が多い。
平安時代から鎌倉時代にかけて南都七大寺の僧たちの修行の場で、
昼なお暗い樹林のなかに、苔むす石仏像がいくつもたたずむ。

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地獄谷石窟仏






けもの道に近い細い道である地獄谷コースへ進むと、
ほどなく「地獄谷石窟仏」と書いた標識と石窟を囲んだ金網が見える。
金網の中に、まるで横穴古墳のような石窟が見え、
その隣の浅い洞窟の石面に三尊像が描かれている。
その側面にも壁画があるが、これはもうかすれて画像とは認識できない。
かなり痛みが激しい石仏たちだが、製作は平安時代末期と書いてあるので、
ほんとならかすれていてもしかたがないのかも。
それにしてもこの街道はずいぶん古くから使われていたものである。
この辺りは春日山の修養道場の拠点であったという。
石仏の多い場所であり、この辺りの石仏は平安末期にほられたものが多いようだ。




●地獄谷聖人窟
凝灰岩(ぎょうかいがん)をくり抜いた石窟で仏像が線刻されている。
聖(ひじり)が住んでいたという伝承があり、「聖人窟」とも呼ばれる(像高 約1m)。
線刻された仏像は、今も彩色が残り格調が高く美しい。

薬師如来(正面左)、廬舎那仏(るしゃなぶつ)(正面中央)、
十一面観音(正面右)、妙見菩薩坐像(右側壁)

奈良春日奥山石窟仏 国宝
奈良時代後期・平安時代後期
(奈良県奈良市高畑町春日奥山)

●春日山石窟仏(穴仏)
春日山石窟仏は、石切峠の近くにあり「穴仏」と呼ばれる。東西二つの石窟がある。
西窟は、金剛界五智如来を刻んだものといわれている。
保元二年(1157)の銘がある。


西窟(平安時代後期)
正面に三体の如来形の坐像が三体、左端には見えないが多聞天が残る。
阿弥陀如来(像高 94Cm) 不空成就如来


東窟東側
平安時代後期、菩薩形立像三体と天部像一体が残っている。


東窟西側
平安時代後期、地蔵菩薩立像 四体と天部像一体が刻まれている 像高 約90Cm。
六地蔵を刻んだものといわれ、地蔵は錫杖(しゃくじょう)を持たない古い形で、手には宝珠を持つ。
地蔵石仏では最も早い作例

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磨崖仏




「朝日観音」は、川沿いに立つ磨崖仏。
東面して朝日に映えるのでこの名があり、真ん中が弥勒、左右が弥勒菩薩である。
鎌倉中期の文永2年(1265)の銘があるそうだ。
観音と名付けられているが、解説では実際には観音ではなく弥勒菩薩だと言う。


「夕日観音」(写真下)は、街道から少し入った山の急斜面に立ち、
朝日観音とは反対に夕日を受けると神々しさが増すと言われている石仏である。
こちらも、弥勒信仰がさかんだった鎌倉時代の製作である。
朝日観音の所にあった解説では、朝日観音と同じ製作者らしい。
夕日観音は三尊からなり、街道を見下ろすような形で岩に彫られている。
あたりは雑木が鬱そうとしているが、
はたしてここに夕日が射すだろうか、と思うような場所である。


「首切り地蔵」(写真右上)の首は、柳生の剣豪柳生十兵衛の弟子、
荒木又右衛門が試し斬りしたという伝説があり、
近寄ってみると確かに首と胴体は離れている。
落ちないように乗せてあるが、まさしく切ったように横に切れ目が入っている。
荒木又右衛門は、柳生道場へ剣の修業に通っていた新蔭流の使い手で、
後に伊賀上野の「鍵屋の辻」で十数人を討ち倒し、見事仇討を果たした事で有名だが、
この又右衛門がこの地蔵で剣の試し切りをして真二つにしたと言う。
真偽のほどは定かでないが、柳生にある柳生石舟斎が真二つにしたという岩に比べれば、
こっちのほうがほんとらしく見える。
地蔵は2メートルほどの石像で、軟質の凝灰岩でできており
鎌倉時代の製作だろうと言われている。
林の中に立っているせいか全身苔で覆われている。

奈良春日奥山磨崖仏




●夕日観音(滝坂弥勒磨崖仏)(鎌倉時代中期、像高 1.6m)
夕日観音は、三角形の花崗岩の前面に刻まれている。
格調高く美しい。前に傾斜した岩に刻まれている。
二重光背を彫りおとし、薄肉彫りの弥勒菩薩を浮き出している。


●滝坂地蔵(鎌倉時代)
夕日観音に隣接する反対側(山側)の岩に彫られている。
錫杖と宝珠を持つ通常の地蔵菩薩形


●三体地蔵(南北朝時代)
夕日観音と滝坂地蔵の中間にある。傷みが激しい。
三体とも錫杖と宝珠を持つ普通の地蔵菩薩の形。


●朝日観音(滝坂弥勒三尊磨崖仏)
鎌倉時代中期 文永二年 1265年の銘、中尊像高 約2.3m(写真下左)
早朝高円山の頂からさし昇る朝日にまっ先に照らされることから
「朝日観音」と名づけられたという。
中央に弥勒菩薩、左右に地蔵菩薩を配した三尊仏。
右上の地蔵菩薩は室町時代に追刻されたもの。




●首切地蔵(滝坂地蔵石仏鎌倉時代後期、像高 約1.8m(写真右)
柳生十兵衛の弟子、荒木又右衛門が試し切りをしたと語られている。

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※出典や参考サイト
 剣豪たちが歩いた柳生街道
 奈良の石仏と石塔
 柳生街道(滝坂の道)
 梅雨明けを待って柳生街道の一部、滝坂の道を踏破
 柳生街道2
 柳生街道
 ガイド】日本の史跡を巡る57 国宝重源上人座像開帳久田巻三
 笠置山から柳生街道で奈良へ(東海自然歩道)
 柳生街道(滝坂の道)
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by mamorus7 | 2007-07-22 10:00 | 宗教・生死


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